随分前にBOOK-OFFで買ったまま忘れられていた本が、出てきた。
以前紹介した、橋本治氏が上梓した「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」という本。
出版の日付をチェックしたら、2005年11月22日だった。
「結構前の本だな~」と思いつつ、せっかくだから読んでみた。
そして、お約束のように読み始めてしばらくで、またツボにハマってしまいました。
橋本氏曰く
20世紀は、「わかる」が当然の時代だった。
自分はわからなくても、どこかに「正解」はある……人はそのように思っていた。
既にその「正解」はどこかにあるのだから、恥ずかしいのだとしたら、
その「正解」を知らないでいることが恥ずかしいのであり、
「正解」が存在することを知らないでいることが恥ずかしいのである。
だから、人は競って大学へ行ったし、子ども達を競わせて大学に行かせた。
ビジネスの理論書を必死になって読み漁ったし、誰よりも早く「先端の理論」を
知りたがった。
それをすることと、現実に生きる自分達が知らないままでいる「正解」を
手に入れることは、
イコールだと思っていたのである。~(略)~
この話しは「なんでも解決してくれる万能の正解」はそもそも幻想である、
と締めています。
そしてここから先、タイトルにある市場原理に対する彼なりの見解が始まります。
まず、「バブル経済」について。
1990年代の末に登場した「勝ち組」を、私は勝手に「日本経済の外から来た」と
言っています。
別にそれは、「外資系の企業」だというわけではありません。
「回復しない日本社会の景気や経済の中からではなく、その外から来た」と
言っているのです。
「外」とはどこでしょう? 「外」とは、「新天地」であり「辺境」である「フロンティア」の
ことです。
「フロンティア」を足場にしなければ、「勝ち組」は登場出来ないし、
「フロンティア」を見つけなければ、いかなる企業も「勝ち組」にはなれないのです。
どうしてかと言えば、バブル経済に至った日本経済が、もう満杯状態に
なっていたからです。
満杯になっていたものが一線を超えた……その無理が「バブルの破綻」を生みます。
だから、「バブルがはじけた」で元に戻ろうとしても、「元」は満杯のままです。
どうしようもないのです。~(略)~
次に「欲望」と経済については。
あなたは「消費者」として世界経済に参加していて、「欲望」は「必要」からはずれています。
「いるかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」というのが、
今の世界の「欲望」です。
あなたは本当に、「必要」ですべてを選んでいますか?
「欲望は世界経済によって動かされている……そうあってしかるべし」と思っているから、
販売促進を願う企業は、「消費者のニーズを先取りしろ」と言うのです。
あなたが会社員だとして、あなたの上司が「消費者ニーズを先取りしろ」と言った時、
あなたは「間違っている」と言えますか? 言わないでしょう?
消費者の「欲望」は、企業の方が先取りする……これをしなければ、もう企業は
生き残れないし、
「自分達のニーズに合わないものを作られたって困る」と、「消費者」の立場に立って
思うでしょう?
そのような形で、あなたは「世界経済」に参加してしまっているのです。
「組み込まれている」というか、「その存在を先取りされ、カウントされている」というか。
だから、「これはいやだ、なんとかしたい」と思っても、なんともならないのです。
「なんとかしたい」と思うその意志=欲望の主体は、「あなた」ではなく、
「世界経済」にあるからです。~(略)~
いかがでしょう、相変わらずのユニークなご意見です。
そして、最終的に日本経済を立て直すヒントに触れています。
昭和30年代までは、「“我慢”という現状に抗する力」をまだ持ち合わせていました。
我ながら「うまいこと言うなァ」と思います。
もちろん、私のオリジナルですが、これが重要だと言うのは、
こうした質の「我慢」がありさえすれば、「いるかいらないかのか分からないが、
自分はそれを“ほしい”と思う」というくだらない
「欲望」の侵蝕を食い止めることが出来るということです。
「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」というのは、
「欲望」なんかではなくて、実は「誘惑に弱い」ということです。
「我慢」というのは、この「誘惑に弱い」に対する、最大の特効薬なのです。
だから、「なぜ我慢はこの世から消えて、SMプレイの場にしかなくなってしまったのか?」
と考えるのは、重要なことなのです。
では、なぜ我慢というものは、この世から消えてしまったのか?
我田引水を承知で言えば、「我慢とは、現状に抗する力である」という考え方が、
我慢が当たり前に存在していた時代には存在しなかったからです。~(略)~
ということで、最後は「我慢しましょう」ってことになる訳ですが、
そんなんじゃァあまりにも寂し過ぎます。
今は間違いなく厳しい時代かもしれませんが、
世の中の終わりはたぶんまだまだ先のことでしょうから、
せめてこれから先、子孫達に感謝されるような社会。
その“きっかけ”だけでもつくれたらたらいいな~、
と思うのであります。